水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』

1970年頃に貧困から脱出し「1億総中流」を実現したが、その後再び貧困層が増大して行っているのは何でだろう?と疑問を持っていた。また2月1日のNHKクローズアップ現代では、いくら長時間働いても給与が上がらない日本に見切りをつけて、海外(カナダやオーストラリア、ニュージーランドなど)に出稼ぎに行き、ずっと短い労働時間で月50万円ほど稼ぎ日本ではできなかった貯蓄をし、将来の展望が開けた若者が増えていること、その裏返しでアジアから日本に出稼ぎに来るのがかつてはブームだったが今はそれほどの引力がなくなったことを報道していた。これらの疑問に答えてくれ、久しぶりにストンと腑に落ち頭がすっきり整理された表題の本に出会った。その嬉しさもあり、僕自身忘れないために、できるだけ詳しく要点をまとめることにする。

はじめに――資本主義が死ぬとき

資本主義の死期が近づいているのではないか。その理由は端的に言えば、もはや地球上のどこにもフロンティアが残されていないから。資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまりフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム。日本を筆頭にアメリカやユーロ圏でも政策金利はおおむねゼロ、10年国債利回りも超低金利となり、いよいよ資本の自己増殖が不可能になってきている。つまり、「地理的・物理的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなってきている。

もっと重要な点は、中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきていること。自分を貧困層に落としてしまうかもしれない資本主義を維持しようというインセンティブがもはや生じない。資本主義の終わりの始まり。この「歴史の危機」から目をそらし、対症療法に過ぎない政策を打ち続ける国は、この先大きな痛手を負うはずだ。

第1章 資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ

際立った利子率の低下の先鞭をつけたのは、この日本。日本の10年国債の利回りは1997年に2.0%を下回り、2014年1月時点で0.62%。さらにアメリカ、イギリス、ドイツの10年国債も金融危機後に2%を下回り、その後短期金利では事実上ゼロ金利が実現している。何故、利子率の低下がそれほどまでに重大事件なのかと言えば、金利はすなわち資本利潤率とほぼ同じと言えるから。資本を投下し、利潤を得て資本を自己増殖させることが資本主義の基本的な性質なのだから、利潤率が低いということはすでに資本主義が機能していないという兆候だ。

異常なまでの利潤率の低下が始まったのは1974年。イギリスと日本の10年国債利回りがピークとなり、それ以降先進国の利子率は下落して行く。1973年、79年のオイルショック、75年のヴェトナム戦争終結があり、これらの出来事は、「もっと先へ」と「エネルギーコストの不変性」という近代資本主義の大前提の二つが成立しなくなったことを意味している。

利潤率の低下を「交易条件」という概念で分析する。交易条件とは、輸出物価指数を輸入物価指数で割った比率で求められる。資源を安く手に入れ、効率的に生産した工業製品を高い値段で輸出すれば高い利潤率を得ることができる。2度のオイルショックで交易条件で大幅に悪化したが、その後80年代、90年代と日本は省エネ技術と合理化で改善した。しかし、1999年以降資源価格が高騰したことで再度悪化に転じてしまった。こうした原油価格の高騰により、1970年代半ば以降、先進国の「利潤率=利子率」の趨勢的な下落が始まった。

ヴェトナム戦争終結によって、アメリカは軍事力を背景として市場を拡大させることが難しくなった。「地理的・物理空間」では高い利潤を得ることができなくなったアメリカは、別の「空間」すなわち「電子・金融空間」を生み出すことで資本主義の延命を図った。その元年は1971年で、この年ニクソンショックでドルと金は切り離され、ペーパーマネーとなった。同じ年にインテルが今のPCやCPUを開発し、地球上の人がすべて「電子・金融君か」に参加することが可能となった。アメリカが金融帝国を確固たるものにしたのは1995年で、国際資本が国境を自由に超えるようになった。

しかし、アメリカの金融帝国化は決して中間層を豊かにすることはなく、むしろ格差拡大を推し進めてきた。この金融市場の拡大を後押ししたのが新自由主義だったから。新自由主義とは、政府よりも市場の方が正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方であり、アメリカでは1980年代のレーガン大統領の「レーガノミックス」から始まって、クリントン、21世紀のブッシュに引き継がれた。レーガン政権は新自由主義とともに、ソビエトに対しては軍拡競争を展開、それが一因となって1991年にはソビエトが崩壊し、東側諸国が資本主義の世界市場に取り込まれ、新たなマーケットが一気に広がった。1995年ルービン財務長官が「強いドル」に政策転換すると、アメリカは経常収支の赤字を上回る資金を世界中から集めて、金融帝国となった。その後1999年に銀行業務と証券業務の兼業を認める金融サービス近代化法を成立させ、マネー創出のメカニズムを根本的に変えてしまった。従来、マネーは銀行の信用創造によってつくられていた。それには家計の所得が増加してある程度貯蓄率が高くなければならないが、1970年代半ば以降、利潤率は低下し、所得の増加率が鈍化してしまったので、銀行を通じて創造されるマネーは増えなくなってしまった。そこで、アメリカ政府は商業銀行の投資銀行化を後押しし、資産価値の値上がりによって利潤を極大化する金融・資本市場を自由化した。こうして、貯蓄行為をおこなう家計は「地理的・物的空間」から主役の座を降り、「電子・金融空間」において巨額の資金をボタン一つで国境を自由に越えて動かすことができる資本家に譲り渡した。こうして集めたマネーを運用して、ITバブル、住宅バブルを起こしていった。

東インド会社から始まって1970年代半ばまでの資本主義は、粗利益と市場規模を拡大させてきたが、1970年代半ばに拡大が困難になってきた。資源が高くなり、先進国では少子化が進行し販売数量の増加率が鈍化している。そこで「電子・金融空間」をつくり、レバレッジを高めることで利潤の極大化を目指していくことが起きた。しかし、こうしてでき上ったアメリカ金融帝国も2008年に起きた9・15のリーマン・ショックで崩壊、全地域をカバーしていた「電子・金融空間」も縮小に転じた。

リーマン・ショックを経たアメリカは、積極財政と超低金利政策で成長を取り戻そうとしたバブル崩壊後の日本と同じ経済構造に直面している。低成長の尻拭いを「電離・金融空間」の創出によって乗り越えようとしても、結局バブルの生成と崩壊を繰り返すだけ。3年に一度バブルは生成し、崩壊するようになった。バブルの生成過程で富が上位1%の人に集中し、バブル崩壊の過程で国家が公的資金を注入し、巨大金融機関が救済される一方で、負担はバブル崩壊でリストラにあうなどの形で中間層に向けられ、彼らが貧困層に転落することになる。

「地理的・物的空間」で利潤を上げることができた1974年までは、資本の自己増殖(利益成長)と雇用者報酬の成長とが軌を一にしていた。資本と雇用者は共存関係にあった。しかし、グローバリゼーションが加速したことで、雇用者と資本家は切り離され、資本家だけに利益が集中している。グローバリゼーションの帰結とは、中間層を没落させる成長に他ならない。グローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」からなる帝国システム(政治的側面)と資本主義システム(経済的側面)にあって、「中心」と「周辺」を結びつけるイデオロギーに他ならない。資本主義は途上国が成長し、新興国に転じれば、新たな「周辺」をつくる必要がある。それがアメリカで言えばサブプライム層であり、日本で言えば非正規社員であり、EUで言えばギリシャやキプロスだ。資本のための資本主義は同時に民主主義も破壊することになる。

第二章 新興国の近代化がもたらすパラドックス

本来は1970年代に「終焉の始まり」を迎えたはずの資本主義を、アメリカは「電子・金融空間」を創設することによって、もう一つの市場を生み出し、その後アメリカの思惑通り、BRICS諸国は2000年代に入って急成長を遂げた。しかし、現在その経済成長に陰りが見えてきている。その原因は新興国の成長モデルが輸出主導にあるという点に求めることができる。先進国の消費ブームは二度と戻ってこない。中間層が没落した先進国で消費ブームが戻ってくるはずがない。

「長い16世紀」においても「長い21世紀」においても、資源価格の急騰と実質賃金の減少が並行して起きている。「価格革命」の収束は、16世紀になぞらえて考えるならば、中国の1人当たりGDPが日米に追いついた時点と予測される。およそ20年後になる。つまり、2030年代前半まで資源価格の上昇と新興国のインフレ、つまり「価格革命」は収束しない。

新興国の近代化は、これまでの先進国の近代化とは大きく異なる点がある。それは13.6億人の中国人全員が、あるいは12.1億人のインド人全員が豊かになるわけではない、ということ。これから近代化する新興国の人々が先進国並みに自動車を所有すれば、ガソリンの消費量は増加するし、電気冷蔵庫を購入すれば発電のための原油や原子力が必要となる。また、鉄には加工過程があり、鉄を消費すればその分エネルギー消費量も増加する。さらに言えば、資源の有限性という視点も織り込まなければならず、70億人のエネルギー消費を賄えるだけの化石燃料は地球上にはないので、全世界の近代化というのは不可能なシナリオなのだ。

今までは2割の先進国が8割の途上国を貧しくしたまま発展してきた。しかしグローバリゼーションの進んだ現代では、資本はやすやすと国境を越えて行き、ゆえに貧富の二極化が一国内で現れる。すでに先進国では1970年代半ばを境として、中間層の没落が始まっている。これから近代化を推し進める新興国の場合、経済成長と国内での二極化が同時に進行していくことになる。中国で13億総中流が実現しないとなれば、中国に民主主義が成立しないことになり、中国内で階級闘争が激化することになるだろう。これは中国共産党一党独裁体制を大きく揺さぶることになると予想される。

リーマン・ショックと欧州危機によって余剰マネーの行き場は新興国に集中するが、これを新興国で吸収できるはずがない。そこで起きるのがバブルとその崩壊。このような中国バブル崩壊までを見据えて考えたとき、中国が世界経済の新たな覇権国になる可能性は低いと考えられる。

グローバリゼーションによって成長が加速している分、遠くない将来に新興国においても先進国と同様の危機が訪れるだろう。すでに現在、少子高齢化やバブル危機、国内格差、環境問題などが新興国で危ぶまれていることからも明らか。だとすれば、もはや近代資本主義の土俵の上で覇権交替があるとは考えられない。次の覇権は、資本主義とは異なるシステムを構築した国が握ることになる。その可能性を最も秘めている国が近代のピークを極めて最先端を走る日本だ。しかし、日本は第三の矢である「成長戦略」を最も重視するアベノミクスに固執している限り残念ながらそのチャンスを逃すことになりかねない。

第三章 日本の未来をつくる脱成長モデル

日本が新しいシステムを生み出すポテンシャルという点でもっとも優位な立場にあると考える理由は、先進国の中で最も早く資本主義の限界に突き当たったから。1997年から現在に至るまで超低金利が続いていることが実証している。資本主義を乗り越えるために日本がすべきことは、景気優先の成長主義から脱して、新しいシステムを構築すること。財政でなすべきことは均衡させておくこと。そしてもう一つは、エネルギー問題の解消。国内で安いエネルギーを自給することが必要だ。

第四章 西欧の終焉

ギリシャの財政崩壊に端を発する欧州危機は、ヨーロッパの大国であるスペイン、イタリアにまで波及し、なかなか解決の糸口が見えない。この危機は単なる経済危機ではなく、「歴史の危機」であり、西洋文明そのものの「終焉の始まり」である可能性すらある。そもそもEU(欧州連合)とは、「海の国」であるアメリカ、イギリスが金融のグローバリゼーションを通じて金融帝国=「資本」帝国として君臨しようとしたのに対して、ドイツ、フランスを中心とした「陸の国」であり、ヨーロッパ統合という理念にもとづいた「領土」の帝国化へと向かう。しかし今、独仏が「蒐集」したはずのギリシャなど南欧諸国の思わぬ反乱にあっている。EUですら、「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」資本の論理に巻き込まれてしまい、EUの「新中世主義」が行き詰っている。このことは、古代ローマ帝国から連綿と続いてきた「蒐集」が止まることを意味し、ヨーロッパの死を意味する。

第五章 資本主義はいかにして終わるのか

私たちが取り組むべき最大の課題は、資本主義をどのようにして終わらせるか。むき出しの資本主義を放置した末のハードランディングに身を委ねるか、あるいは一定のブレーキをかけてソフトランディングを目指すのか。前者に待ち受けているものは、巨大なバブルの生成と崩壊で、最後は中国の過剰バブルになる。「世界の工場」の輸出先の欧米の消費は縮小し、アジア諸国とは領土問題を抱え関係は悪化するばかり、かといって内需主導に転換することもできない。いずれ過剰な設備投資は回収不能となり、やがてバブルが崩壊する。その場合、海外資本、国内資本は海外に逃避していく。中国がアメリカ国債を売るならば、ドルの終焉をも招く可能性すらある。

資本主義はいよいよ歴史の舞台から姿を消していくことになり、全世界規模でゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレが実現して、いやがおうにも定常状態に入らざるをえなくなる。日本においても相当な数の企業が倒産するだろうし、賃金も劇的に下がる。国家債務は膨れ上がり、財政破綻の追い込まれる筆頭候補が日本。資本主義の暴走に歯止めをかけなければ、このような長期の世界恐慌の状態を経て、定常状態へと推移していく。

ソフトランディングの道はあるか。グローバル資本主義にブレーキをかけるとしたら、それは世界国家のようなものを想定せざるを得ない。企業があまりにも巨大であるのに対して、現在の国民国家はあまりにも無力だ。EUでも欧州危機で振り回されているということは、まだサイズが小さいのかもしれない。少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗する必要がある。

「定常状態」とはゼロ成長社会と同義で、人類の歴史の上では珍しい状態ではない。1人当たりGDPがゼロ成長を脱したのは16世紀以降のこと。この後の人類史でゼロ成長が永続化する可能性は否定できない。

この定常状態の維持を実現できるアドバンテージをもっているのが、世界で最も早くゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレに突入した日本。しかしゼロ金利だけでは十分ではない。国が巨額の債務を抱えていては、ゼロ成長下においては税負担だけが高まることになるので、基礎的財政収支(プライマリーバランス)を均衡させておく必要がある。もう一つの難問がエネルギー問題。新興国が成長するほど、世界はエネルギー多消費型の経済に傾いていくので資源価格は釣り上がっていく。定常状態を実現するためには、第一に人口減少を9000万人あたりで横ばいにすること、第二には安いエネルギーを国内でつくって原油価格の影響を受けないことが重要になる。

かつて政治・経済・社会体制がこぞって危機に瀕したのが「長い16世紀」で、中世の荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家へとシステムを一変させた。そして1970年代から今に続く時期を「長い21世紀」と呼び、どちらの時代も超低金利のもとで投資機会が失われていく時代で、それを契機にして政治・経済・社会体制が大転換を遂げた。だとするならば「長い21世紀」においても、近代資本主義・主権国家システムをいずれ別のシステムへと転換せざるを得ない。しかし、それがどのようなものかを人類は未だ見いだせていない。そうである以上、資本主義とも主権国家ともつきあっていかなければならない。資本主義の凶暴性に比べれば、市民社会や国民主権、民主主義といった理念は、軽々と手放すにはもったいないもの。現在取りうる選択肢は、グローバル資本主義にブレーキをかけることしかない。

誕生時から過剰利潤を求めた資本主義は、欠陥のある仕組みだったとそろそろ認めたがいい。これまでダンテやシェイクスピア、あるいはアダム・スミス、マルクス、ケインズといった偉大な思想家たちがその欠陥を是正しようと命がけでたたかってきたから、資本主義は8世紀にわたって支持され、先進国に限れば豊かな社会を築いてきた。しかしもはや地球上に「周辺」はなく、無理やり「周辺」を求めれば、中産階級を没落させ、民主主義の土壌を腐敗させることにしかならない資本主義は、静かに終末期に入ってもらうべきでだろう。

そのためには「より速く、より遠くへ、より合理的に」という近代資本主義を駆動させてきた理念もまた逆回転させ、「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」と転じなければならない。その先にどのようなシステムを作るべきかはわからないが、「歴史の危機」である現在をどう生きるかによって、危機がもたらす犠牲は大きく異なってくる。今まさに「脱成長という成長」を本気で考えなければならない時期を迎えている。

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