出口治明『還暦からの底力』にあるように、古典から学ぶのは大いに賛成なのだが、この書で挙げられている必読の古典がすべて近代西欧社会を導いた書で(ダーウィンの『種の起源』のみは少し異なる)、僕には難しすぎ魅力も感じなかったので、養老孟司さん推薦の『方丈記』を読んでみた。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
に始まる超有名な書で、福岡伸一さんの「動的平衡」にも通じる世界観にはいつか一読したい魅力を感じていた。
『方丈記』は、源平争乱期を生きた鴨長明(1155頃~1216)が、晩年(1212)に書いた体験記である。体験記は大きく二つから成り、一つは大火事や飢饉など若い頃に起きた五つの大災害の悲惨さ、もう一つは現在の草庵での閑居生活の愉しみである。五つの大災害とは、安元の大火(23歳)、治承4年の辻風(26歳)、福原遷都(同)、養和元年の大飢饉(27歳)、元暦2年の大地震(31歳)で、人が一生に一つ体験するかしないかくらいの大災害を5回も体験したのだからすごい。
知らず、生れ死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る。(わたしにはわからない、たえず生まれたり死んだりを繰返しているこの人間というもの、いったいどこから来て、死んでどこへ行くのであろうか)
と、あらゆる哲学・宗教が突き当たる大疑問に突き当たるが、長明は『方丈記』で、方丈の住居を選ぶまでの自分の生涯を回顧しつつ、この存在の大問題への問いを発し続ける。まだ個人の自由が認められず、人権が保障されなかった時代の、権勢ある者がのさぼり、無力なるものはちぢこまって生きざるを得なかった時代の生き難さのかずかずを、長明はいろいろ挙げ、その結論のようにして言う言葉
世にしたがえば、身、くるし。したがわねば、狂せるに似たり。(随わなければ狂人と見られよう)
は、現代においても通用する言葉ではあるまいかと、長明の洞察に感嘆する。そして、この世に生きる者すべての切なる願いを発する。
いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらの心を休むべき。(どんな所に住み、どんなことをしていたら、この短い人生をしばらくも安らかに生き、少しのあいだでも心を休めることができようか)
長明の祖父鴨季継(かものすえつぐ)は、父の長継(ながつぐ)と同じく下賀茂神社の禰宜(神職)を継承した人である。その妻(祖母)の子か孫かを長明は妻にしていたらしく、長明がむろん将来あとを継いで禰宜を継ぐことを期待して家を伝えさせたのだろうが、長明は神職にはげむどころか、和歌とか音楽の道にのみ精励して神官の決まりきった仕事はまるでおろそかにしていたのではないかと思われる。しかも和歌、音楽に熱中するといってもその熱中度は並大抵ではない。彼は養和元年(大飢饉の年)に『鴨長明集』という本格的な歌集を編んでおり、世にも認められていた。音楽についても本格的に学び、音楽の名手として知られていた。祖父の家を継がせた婿の長明は一向に神職にはげまないので、下賀社禰宜の地位は対立する鴨祐兼(かものすけかね)の一族に独占され、長明に回ってくる気配はなかった。長明30歳のとき、下賀社禰宜となる望みを絶たれ、嫁の家から見離され追い出されてしまったが、当然だろう。
こうして三十余りで前の十分の一ほどの家を作って住み、住むこと二十年、五十の年に「家を出で、世を背けり」と書く。実にあっさり、何でもないかのように事実だけを記しているが、実にドロドロの執念の葛藤劇があってのことだった(詳細は略)。
この遁世は、この世の無常を感じて仏道専念のためという積極的なものでなく、このいやな世をこれ以上我慢して苦しい思いを重ねるのはイヤだと消極的な出家遁世であった。しかもそれは、はたから見れば長明の我儘、身勝手な思い、強情のためでしかない。彼はただ自分の「心」という厄介なものをかかえていた。「心」一つにのみ忠実に生きようとする人間であった。その「心」一つのために世を捨てた、いわば自業自得の出家だが、これが鴨長明という人間だったのである。
では、どうやって、どういうところに住んでついの心の安安らぎを得たか。その答えが方丈の住居なのだ。これならイヤなことがあればどこへでもすぐ引越せる。権門、富家へのおそれもいらない。自分の自由になる住居はこれだと、行きついた究極が方丈(三メートル四方、四畳半よりちょっと大きい程度)の簡易組立て式住居だった。自由を得るための究極の住居としての方丈建築、これはまさに思想としての住居である。このことによって彼は、何百年か後に生涯草庵暮しを選んだ良寛まで、世々この国の隠者たちの先駆をなした。
日野山の奥に隠れ住んでからの方丈暮らしのたのしみが語られる。
もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。
これが隠棲のたのしみの極意だ。現世でさんざん苦労した長明が晩年に及んでようやく手に入れた生存の自由、誰にも遠慮する必要のない、したいときにし、したくないときはしないでいい、まったくすべての時間が自分のものである極楽境なのである。ただしそれは信仰によって得たのではない。自分の好きなことは一つも棄てないままに実現した、生のたのしみなのである。あえて言えば、それは「数寄」を極めた先に開けた境地ということになろう。
芸はこれ拙(つた)なけれども、人の耳を喜ばしめんとにはあらず。独り調べ、独り詠じて、みづから情(こころ)を養ふばかりなり。
ここに完全に自分を受け入れ、全肯定し、自分自身になりきった人がいる。実はこれこそすべての人間が求めている境地ではなかろうか。誰もが自分の心の欲するままに行い、自由に生きたいと念じながら達せられないでいる境地を、長明は方丈の住居という極限の貧しさに自己を閉じ込めることで、その自由を得た。
山中独居のたのしみは戸外に及び、天気が良ければ山の中は里より楽しみは多く、食糧になるツバナ、イワナシ、ヌカゴ、セリを集めたり、峰を越えて遠くの山や名所まで足を伸ばすこともある。六十翁の健脚さは驚くばかりだ。上がったり下がったりする峰を越え、大変な距離を歩いている。長明が山中独居でロクな食い物もないだろうに、老年でなお達者でいられたのは、このよく歩くことが大いに役立っていたに違いない。
総括としての住居哲学が語られ、その一つは
ただ、仮の庵のみのどけくして、おそれなし。
という逆説。大邸宅ほど安全と考えるところだが、「財あれば、おそれ多く」で却って安心を得られない。そうではなく別に所有物として大事にする必要のないつまらぬ仮の住居こそが、盗難のおそれもなく火災を懸念する必要もうすく、いつ捨てても構わないということで欲望の対象とならず、心を労する必要もない。「のどけし」なのだ。
われ今、身の為に結べり。人の為に造らず
他人を意識し、他人との競争に明け暮れることの空しさに気がついた。大事なのは自分であって、自分にとって何が必要で何が不要か、それを見定め、自分のために生きるのが当たり前だと考えるようになった。基準は他人でなく、自分にあるのである。ただこの自分のためには、エゴイズムの満足でなく、自らの心のため、心の自由のために生きよ、ということだが。
大邸宅に住み多くの召使を使っていたであろう上流階級に属していた長明は、五十を過ぎて初めて、日常の仕事は掃除、食事の支度、後片付けなど全部自分でやり、さらに牛車などを使わずどこへゆくにも自分の足で歩くようになった。当時の上流階級人としては、生き方の革命的な変貌だったであろう。しかもその上、食糧とて自給自足で森の木の実を拾い、食えるものを探し、着るのは「藤の衣」、寝具は「麻の襖」という次第で、生活ががらっと根底から一変した。しかし本来なら耐え難い生き方の変化を肯定的に受け入れ、その良さを強調しているのだ。
常に歩き、常に働くは、養生なるべし。なんぞ、いたづらに休み居らん。
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如何でしたか。現代まで時代を越えて読み継がれてきた古典中の古典でしたが、安易に真似などできない強烈な生き方ですね。現代において近い生き方を探せば、やはり自給自足生活者ではないだろうか。本ブログでも紹介した田村余一・ゆに『都会を出て田舎で0円生活はじめました』や、2020年に参加していた畑の無肥料栽培セミナー講師・岡本よりたかさんが、僕が知りうる限り最も近い生き方だと思う。どこまで近づくことができるか、僕もチャレンジしたいと思う。