出口治明『哲学と宗教 全史』4~ ルネサンスから近代の合理性へ

研修・読書

ルネサンスと宗教改革を経て哲学は近代の合理性の世界へ

ルネサンス(フランス語で「再生」の意味)を呼び起こしたのは、それまで書物といえば聖書とキリスト教関係の著作しかなかったヨーロッパに、前述したようにギリシャやローマの古典がイスラーム世界を経由して大量に入ってきたこと。

1347年、南イタリアに上陸したペストも、ルネサンスを呼ぼ起こす大きな原動力となった。黒死病とも呼ばれたこの疫病は数年のうちに北欧や東欧にまで拡大し、ヨーロッパ全域の人口の約3分の1を死滅させた。ペスト脅威にさらされた人たちはどのような死生観を抱いたでしょうか。一つはメメント・モリ(死を想え)という言葉に代表される考え方。こんな儚い人生なのだから、きちんと敬虔に生きようと考える生き方。神にすがる生き方ともいえる。

逆にもう一つの生き方も登場してくる。いつペストの犠牲になるか分からないし、ペストに感染したら神様も助けてくれないのだから、この人生を楽しく生きようぜという考え方です。神の手から自分の人生を開放していく生き方です。この考え方からイタリアのジョヴァンニ・ボッカチオ(1313-1375)は『デカメロン』が生まれた。ここには神への畏れや敬愛の姿勢はほとんど出てきません。

ルネサンスの中心は15世紀のイタリアで、絵画芸術を中心に大輪の花が開いた時代。残念ながら哲学の世界では、今日まで残っているような人物は登場しなかった。万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチは自然を観察する能力の卓抜さにおいては哲学者だったかもしれないが、むしろ思索する人というより、観察し創造する人でやはり芸術家だったと思う。あえて哲学者らしい人を挙げれば、ロレンツォ・ヴァッラとマルシリオ・フィチーノか。他に『君主論』を書いたニッコロ・マキアヴェッリという注目すべき思想家が生まれている。

ローマ教会の聖職者であった ロレンツォ・ヴァッラは、2つの業績で宗教界と芸術界に大きな影響を与えた。一つはローマ教会が大切にしてきた「コンスタンティヌスの寄進状」という書状を、偽書であると完璧なまでに挙証したこと。その方法は、寄進状に使われている言葉を丁寧に分析し、コンスタンティヌス1世の時代に使用されたものではなく、ローマ教皇がピピンの寄進を受けた8世紀の言葉や文体であることを、文献学的に論証した。合理的、近代的な学問が登場したのです。

ロレンツォ・ヴァッラは『快楽について』という本も執筆している。彼はこの本で愛について、精神的な純愛だけでなく性愛も素晴らしいものであると、堂々たる論理で主張した。併せて、人間の体は美しいものであると主張した。執筆から50年後、サンドロ・ボッティチェッリの名作『ヴィーナスの誕生』や『春(プリマヴェーラ)』が生まれた。 ロレンツォ・ヴァッラは神の手から人間を取り戻す、素晴らしい理論武装を与えてくれた哲学者だったといえるかもしれない。

イタリア中部の都市フィレンツェは、ルネサンスの一大中心地。その市政を支配していたのが一大金融業者であったメディチ家で、コジモ・デ・メディチ(1389-1464)は自分が当主であった時代に、マルシリオ・フィチーノという若い学者の才能を見込んで別荘を与え、プラトン全集のラテン語への翻訳を行わせた。やがてこの別荘は学者たちや芸術家のサークルのようになっていき、いつしか「プラトン・アカデミー」と呼ばれるようになっていった。ここがルネサンスのエネルギーの源泉の一つになった。

ルターの宗教改革

宗教改革は、ルネサンスの時代にピークをつけたローマ教会の世俗化や高級聖職者の堕落、そして下級聖職者の無教養などに対する批判が嵩じたもの。発端は、ローマ教皇のレオ10世がドイツで贖宥状を売り出したこと(1515)。贖宥状とは、これを所有しておれば犯した罪を軽減されるという万能の赦免状のようなもの。この時期に実行したのは、サン・ピエトロ大聖堂の改築工事が資金不足で進まなかったから。それから2年後、ヴィッテンベルク大学の新学教授マルティン・ルターが、教会に「贖宥状に対する95ヶ条の論題」を貼り出した。「人間の罪を身代わりになって許すことができるのは神のみである」と議論を提案した。その後、教会を批判する声と同時に聖書に帰れという声が拡がっていく。

カルヴァンの宗教改革

ルターに共鳴したカルヴァンは、スイスのバーゼルで『キリスト教綱要』を出版(1536)。聖職者も領主も一般市民も、すべて聖書や法律の前では平等であると説き、「予定説」を主張。予定説は、それまで考えられていた最後の審判ではなく、「魂の救済を得られる人は、あらかじめ神によって定められている」とする。自分たちは選ばれて天国に行く者であるから、与えられた転職(すなわち自分の職業)を禁欲的に務めるのだと、信じ込んだ。その結果得られる蓄財は神の財産である、とも教えていた。カルヴァン派の人々の生き方と業績が、資本主義の原型を生み出し発展させた。カルヴァンはフランスではユグノー、イングランドではピューリタン(清教徒)と呼ばれた。

ローマ教会の対抗宗教改革

ドイツと北欧はほとんどルター派になってしまい、フランスもユグノーが半分を占め、イングランドはイングランド国教になってしまった。かつてヨーロッパ全域を支配していたローマ教会の宗教的領地は激減してしまった。そこで対抗宗教改革に立ち上がった。先鞭をつけたのはパリ大学に学ぶ若者たちで、イエズス会を結成。設立者はイグナティウス・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルたち。彼らはローマ教会の信者を獲得するため、新大陸やアジアへの布教活動を始めた。その結果、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸することになった。宗教改革によってローマ教会の勢力圏は減少したが、しかしそのことが新しい世界へ拡大する契機となり、ローマ教会が世界宗教に飛躍することにつながった。

哲学は近代の合理性の世界へ

ルネサンスと宗教改革によって、神を絶対視せず、合理的にものごとを見つめて考える知性の働きの大切さに目覚めた。そして、信仰上位の世界から合理性と自然科学の世界へと時代は踏み出す。近代の幕開けです。その先頭に立った思想家が、帰納法を体系づけたイングランドのフランシス・ベーコン(1561-1626)。彼はガリレオ・ガリレイやヨハネス・ケプラーの同時代人。さらにイングランドの経験論を発展させた自由主義・民主主義の父、ジョン・ロック(1632-1704)。彼はアイザック・ニュートンと同時代人。次にイングランドに生まれたのは、経験論を大成させたディヴィット・ヒューム(1711-1776)。ヒュームは人間を「知覚の束」と説明、現代の生物学の成果と通底する問題意識につながっている。ヒュームはアダム・スミス(1723-1790)の友人だった。アダム・スミスは『国富論』で分業と交換を文明の基礎と捉え、富の源泉は労働にあると考えた。また政府が統制する重商主義を批判し、人間の利己心を基軸として自由放任主義による市場こそが自由主義経済の基本であるとした。しかしまた同時に、『道徳感情論』で他者に対する共感の重要性を指摘している。

イングランドの経験論と同時代に発展したヨーロッパ大陸の合理論:ヨーロッパでは、ルネ・デカルト(1596-1650)、バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)、そしてゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)などによって後に大陸合理論と呼ばれる哲学の潮流が盛んになった。

上記の2大潮流とは別に、古代の人間社会の分析から考え始めた2人がいた。イングランド人のトマス・ホッブス(1588-1679)と、フランスのジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)。ホッブスは、人間の自然状態は「万人の万人に対する戦い」と説明し、ルソーは逆に、無欲で争いを知らなかった善良な人間は自分自身の知能を発達させて物質文明を作り上げ、貧富の格差を作ってきた。そこから人間は自己の資産を守るため争い競い合うようになったと、『人間不平等起原論』で説いた。そして「自然に還れ」と。

近代から現代へ。世界史の大きな転換期に登場した哲学者たち

アメリカの独立(1776)、さらにフランス革命(1789)、ナポレオン法典の成立(1804)、そして本格的な国民国家の時代へと幕を開く1848年革命(諸国民の春、ヨーロッパ革命)までの、近代に移っていく時代の思想家。まずは2人、イングランド生まれのトマス・ペイン(1737-1809)とアイルランド生まれのエドモンド・パーク(1729-1797)。

ペインはアメリカに移住し『コモン・センス』を執筆、人間は生まれつき平等なのだからアメリカは自信をもって自分たちの主張を正当化しよう、イングランドからの独立こそがアメリカ人のコモン・センス(常識)と訴え、独立戦争に向かってのアジテーションとして大きな役割を果たした。アメリカ人はこの小論文に勇気づけられ、独立宣言を発表、独立戦争に突入した。

独立戦争でアメリカが勝利すると、それに鼓舞されてフランス革命が起きた。革命はやがて過激化し、フランス王ルイ16世をギロチンで処刑するに至る。このフランス革命をクールに見つめていたのがイングランド人、エドマンド・パーク。彼は後に「保守主義の父」と呼ばれるが、フランス革命を激しく非難。王侯や貴族に絶対的な特権を与えることは正しくないが、しかしながら簡単に壊してもいけない。市民が彼らをうまくコントロールしながら、例えば議会政治を進めるのが賢明だと。私は人間の頭脳より経験と慣習を信じたい。大体においてさほど賢くない人間の理性を全能と考え「自由・平等・友愛」などといって何が可能なのか。人間は経験の裏付けのないものを安易に信じてはいけない。この考え方にペインは反論するのだが、ここに至って初めて僕たちの知っている「保守」と「革新」という二項対立のイデオロギーが立ち上がった

イングランドの経験論と大陸の合理論を統合しようと考えたカント:ドイツにイマヌエル・カント(1724-1804)が登場し、2つを統合しようとした。カントは人間には2つの認識の方法があると考えた。感性と悟性(知性)です。この2つが一つになって世界を認識するとした。そして、これまでの哲学の認識論では対象をそのまま対象として認識しそれが真実の存在であると考えていたが、カントは人間は認識の枠組みで対象を認識しているだけで、その事物の真実の姿を見ることは不可能であると断言。この認識論の逆転を、著書『純粋理性批判』の中で、「コペルニクス的転回」と呼んでいる。これは現代の大脳生理学が解明した研究成果と同じで、正解でした。また『実践理性批判』では、自然界には自然法則があり、人間界には道徳法則があるとした。前者はイングランドの経験論の立場、後者は大陸合理論の立場、観念論です。人間は学習を重ねてよくものごとを考えるようになると自然法則(例えば地動説)が理解できる。そうなれば自分の信念の理想的な在り方もわかるようになり、信念(格率)は道徳法則に一致してくる。こうして自律した人格となった人々が「目的の王国」という理想社会をつくることができる。このようにしてカントはイングランドの経験論と大陸の合理論を統一したとされる。もちろん反論もあるらしい。

ヘーゲルの弁証法:カントより半世紀ほど後にドイツに生まれたフリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)。彼の弁証法は以下。すべての有限なるもの、永遠不変でない存在は、その内部に相容れない矛盾を抱えている。この矛盾はテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)によって構成される。矛盾は静止したままでは止まらず、対立し運動を起こして、両者を綜合した新たな段階の存在になる(「止揚」と呼ぶ)。これをジンテーゼ(正反合)と呼ぶ。そしてこの新たな存在もまた、新しいテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)を内包している。

ヘーゲルは人間の精神活動も、正・反・正反合の止揚を繰り返しながららせん階段を登るように進歩していくと考えた。そして最後には人間精神の最高段階に達して「絶対精神」を獲得するのだと。絶対精神とは、人間が認識している現象(主観)と、存在の実像である対象(客観)を一致させたもの。さらにヘーゲルは大胆にも、歴史にも正・反・正反合の流れがあり、絶対精神へと上昇する中で人間の自由が得られると考えた。古代社会は王侯と奴隷の時代、封建社会になると奴隷から農奴の身分になった、絶対君主制の時代になると市民階級が生まれて自由が現実化したがまだ弱い、さらにフランス革命で共和制が実現したらもっと自由になった。そして、ヘーゲルは弁証法の理論によって、家族という愛情の世界と市民社会という権利の世界を掛け合わせると、家族のような愛と市民社会の権利を一つにした理想国家が生まれ、しかもその国家が具体的にはプロイセン王国であると指摘した。

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