イスラーム教とは?その誕生・発展・挫折の歴史
イエスやブッダはいわば出家者だったが、ムハンマド(570頃-632)は商人であり市長であり軍人であった人で、最後は愛妻に看取られて自宅で死去した普通の人だった。イスラーム教におけるムハンマドの立場は最後の預言者です。預言者とは神から言葉を託されて、それを人々に伝える者を指します。すなわちムハンマドは人間です。そしてイエスもムハンマドの前に登場した一人の預言者として、人間として位置づけられている。
イスラーム教の聖書に相当するものはクルアーンで、原義は「詠唱すべきもの」の意味。ムハンマドが神から託された言葉が書かれている。クルアーンに次いで重要視されるのがハディースで、ムハマドの言行(スンナ)を記録した言行録です。
イスラーム教の大きな特徴は、キリスト教や仏教のような専従者(司祭や僧)がいないこと。例えば八百屋の主人が聖職を兼業していて、必要な時は法衣を着てクルアーンを読み、儀式を進行させる。だから聖職者のために寄付する必要がありません。モスクと呼ばれる寺院や墓地などの管理は、自治体やNPO的な組織が行う。イスラーム教を学ぶ大学も神学者も存在するが、専従者はいないのです。
★ジハードに対する大いなる誤解:ジハードは単純に「聖戦」と翻訳され、イスラームの闘争性を特徴づけていると理解されがちだが、ジハードの本当の意味は自分が立派な行動を取れる人間となれるように奮闘努力すること。立派な行動とは、ムハマドが説いた寛容と慈悲を大切にする生き方です。もちろん異教徒と戦うことがなかったわけではありませんが、ムハンマドのウンマの運営とイスラーム教を布教する根本精神は寛容と慈悲でした。商業という人の和がなければ成立しないビジネスを生業とした人間が考えた宗教であることが、イスラーム教を理解するときの原点である。
★4人妻をどのように考えるか:クルアーンには妻は4人まで持つことを認める、と書いてある。ムハンマド自身も最初の妻が亡くなった後、12人の妻を持ちました。妻はほとんどが戦死した戦友の妻たちだった。当時は大半の女性にとって自立して生きていける時代ではなかった。ムハンマドは戦友の妻の生活を守るために寡婦をめとりました。クルアーンは戦乱の時代背景を考えて、4人までの妻帯を認めたのだが、それは男性側の一方的な権利ではなく、同時に男性側に課せられた義務が存在する。例えば2人目、3人目の妻を迎える場合には、それまでの妻の了承を得なければなりません。女性側に拒否権が認められているのです。また妻に何かプレゼントする場合、他の妻にも相応のプレゼントが必要となります。愛することも平等でなければなりません。これは経済的にも肉体的にも大変な負担となるので、現実的には王族など一部の例外を除いて、ほとんどの家庭は一夫一婦制の生活を営んでいる。
ムハンマドは男尊女卑が一般的だった時代に、男性の半分だが、女性の財産権を認めている。当時のヨーロッパでは考えられないこと。総じて言えることは、クルアーンを丁寧に読めば、男女平等に近い発想のほうのが数多くあり、決して女性に忍従を強いているわけではない。インドネシア、パキスタン、バングラデシュ、インドなどムスリム人口の多い国では、女性がイキイキと働いている。4か国に共通していることは、4か国ともこれまでに女性の大統領や首相を生んでいること。世界経済フォーラムのジェンダー・ギャップ指数で全世界149か国中110位(2018年)の日本から見ればなんともうらやましい話ではないか。
★「イスラーム原理主義」とユースバルジの問題:もともと原理主義という言葉は、アメリカで19世紀末から20世紀初頭に盛んになった、過激なキリスト教のグループを指す言葉だった。例えば、博物館でダーウィンの進化論の解説があると、彼らは裁判所に訴えて「人間はアダムとイヴから始まったのに、猿人を人類の祖先だとするのは聖書に反している。即刻に展示をやめろ」と。
ではなぜ、ISなどが「ムハンマドに帰れ」とか「クルアーンの世界に戻せ」と主張するのか。それは歴史的にみると、イスラームが中国や日本と同じように、産業革命とネーションステート(国民国家)という人類の2大イノベーションに乗り遅れたから。日本は明治維新によってどうにか世界の趨勢に追いついた。しかし一部のイスラーム世界は追いつくことができなかった。ISの主張は、明治維新の際の「尊王攘夷」や「廃仏毀釈」の考え方によく似ている。
さらに頻発するテロ行為については、ユースバルジ(若年層の膨らみ)の問題を視野に入れるべき。政情が不安定で経済が低迷している中東では、人口の多い10代から20代の元気な若者が働きたくても働く場所がない。だからお金がないし娯楽の機会も少ない。そこで絶望してテロに走ってしまう。
イスラーム教にはギリシャ哲学を継承し発展させた歴史がある
ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、529年アテナイにあった2つの大学(プラトンが創設したアカデメイアと、アリストテレスが創設したリュケイオン)を閉鎖した。ローマ帝国の国教となっていたキリスト教にとっては、聖書以外の学問を教えることは不快なことだった。ここに西方世界の「焚書坑儒」が完成した。
この当時のペルシャはササーン朝の時代で、学問を積極的に保護しており、現代のイラン南西部にジュンディー・シャープールに大学と図書館をつくっていた。アテナイの大学を追われた教授たちは、書籍持参でここに身を寄せた。当時のアラブ人は伝統的に知りたがり屋として有名だった。しかし大半の書籍はギリシャ語で書かれていたので読みたくても読めない。
やがてアッバース朝の時代(750-1258)になり、唐と対戦(751)。唐から紙の製造方法を知る機会を得ると、もう鬼に金棒。アラブの知りたがり精神が爆発した。彼らは紙という絶好の書写材料を得て、仏典の漢訳と並ぶギリシャ・ローマの古典の一大翻訳運動を開始した。このスケールの大きな翻訳運動は、中国で行われたインドのサンスクリット語から漢訳した翻訳運動と並んで、人類の2大翻訳運動と呼ばれている。こうしてプラトンやアリストテレスの著書がアラビア語で読めるようになり、多くのムスリムの学者たちがギリシャ哲学を夢中になって学んだ。その中からヨーロッパに大きな影響を残した偉大な思想家が何人も登場する。例えば、イブン・スィーナー(980-1037)やイブン・ルシュド(1126-1198)。彼らはムスリムであり、偉大な思想家でもあり、優れた自然科学者でもあった。そして時代を代表する医学者であり有能な医師でもありました。ヒポクラテス(BC460頃-BC370頃)やガレノス(129頃-200頃)の思想を体系化したイブン・スィーナーの医学書『医学規範』は少なくとも16世紀末まで、西欧の医学校の標準的な教科書として利用されていた。
イスラーム神学とトマス・アクィナスのキリスト教神学との関係
スペインのイスラーム国家は、キリスト教国のカスティージャ王国によって再征服される(1085)。マドリード郊外にある古都トレドはムスリムの拠点の一つで、アッバース朝の一大翻訳運動の成果が伝わっていたので、時のカスティージャ王アルフォンソ6世は、押収したすべての著作(当然に上記ムスリムの著作も含まれていた)をラテン語に翻訳するよう命じた。ラテン語はその当時、西欧社会では知識階級の共通語でした。この翻訳作業によってアテナイの2つの大学(アカデメイヤとリュケイオン)閉鎖以来、実に500年の歳月を経て、プラトンやアリストテレスがヨーロッパに復活した。ここから「12世紀ルネサンス」が始まります。
ギリシャ・ローマ古典の復活と、軌を一にするようにしてヨーロッパではスコラ学が盛んになる。スコラ学とはキリスト教の神学者によって確立された学問の方法で、それまでの一方的に神学を教えて信じさせるのではなく、ロジックの学習と質疑応答を中心に据えた。学習場所が教場(スコラ)が中心だったためスコラ学と呼ばれるようになった(今日のスクールの語源)。スコラ学の発展が大学の誕生につながっていき、11世紀末にボローニャ大学、12世紀前半にパリ大学が誕生した。スコラ学の中で、特に神学と哲学にかかわる学問をスコラ哲学と呼び、中でもドミニコ修道士であったトマス・アクィナスは偉大なスコラ哲学者と評価された。
この時代は地球の温暖化が進んだことで農作業も活発になり、新しく三圃式農業のような耕地の改革が行われたり、積極的に農地開拓運動を進める宗教集団も登場したりして、生産力が上昇した。このことが文化的な活動「12世紀ルネサンス」を積極的に後押しする大きな原動力になり、14世紀にやがて訪れるイタリア・ルネサンスの大波につながる第一波となった。
仏教と儒教の変貌
仏教の変遷は、最初に自らの悟りを求める原始仏教が誕生し、上座部と大衆部に分裂した後、大乗仏教が創始された。しかし、ヒンドゥー教の亜流に過ぎなかったことからインドでは伸び悩みます。そこで苦境を打開するため先祖返りを始める。もともと都市部の上流階級に信者が多かったので、その原点にもどろうとして、大日経という宇宙を統べる大日如来を賛美した経典や、秘密義則を詳述した金剛頂経を創作した。密教では偉大な理想を説く大日経の教えと、金剛頂経の世俗な願いを実現させる呪術的な儀式を、お金持ちを中心に布教した。仏教の発展の歴史は密教の登場で完成した。
仏教は、誕生の順番からいえば、上座仏教、大乗仏教、密教。しかし流布した過程は、第1波が紀元前後、大乗仏教が中央アジアからシルクロードを経由して、中国に入った。第2波が7世紀頃で、密教によるチベットへの布教。そしてモンゴルや満洲へと拡がった。第3波は11世紀、上座仏教がスリランカからミャンマーに伝わり、さらに13世紀にタイやカンボジアに伝わった。
仏教は不思議な宗教で、誕生の地インドではほとんど面影を残さず、わが国や中国、チベット、東南アジアで栄えている。その東南アジアは、一方では世界で最もイスラーム教徒の人口が多い地域になっている。東南アジアのGDP(国内総生産)は着実に上昇中。イスラーム世界のこれからの動勢を考えるとき、中東の混乱だけに注目するのではなく、東南アジアの宗教の現状を注視していくべきだと思う。
諸子百家の一つ、儒教は中国の各王朝の正統的な教学として発展してきた。しかし、様々な異説が存在しており、体系化された教えとは言い難い側面が多々あった。例えば、儒教の教えは宇宙論やあの世のことにはほとんど言及していない。儒教が最も大切にしたのは「修身・斉家・治国・平天下」で、いわばこの世を渡る具体的な処方箋ばかりを教えていた。ところが西方から入ってきた仏教は宇宙論やあの世のことをも語っており、道教もあの世のことを豊富に語っている。儒教はなんだかスケールの小さい教えだというイメージがあったのです。
朱子(1130-1200)が大成させた朱子学は、このような儒教の弱点を仏教の論理的な側面や道教のイマジネーションなどを上手に借用して、一つの壮大な体系として再構成したんものだと定義づけられる。