出口治明『哲学と宗教 全史』2 ~ヘレニズム時代の哲学と宗教

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ヘレニズム時代の哲学と宗教

ヘレニズム時代とは、ギリシャ語が世界の国際語になった時代のことで、具体的にはマケドニアのアレクサンドロス大王が大帝国を成立させたBC330年から、新興のローマによって制圧されたBC27年までの約300年。アレクサンドロス大王はペルシャからインダス川流域まで帝国を拡大していく過程で、数多くの都市を建設し、ギリシャ人を住まわせたので、ギリシャ本土の人口は減少した。ギリシャの衰退に拍車がかかる中で、4学派と呼ばれる哲学が隆盛を極めた。アカデメイヤ、リュケイオン、エピクロス派、ストア派の4つ。アカデメイア(プラトン)とリュケイオン(アリストテレス)については、すでにで紹介したので、残り2つについて。

エピクロス(BC341-BC270)の哲学は唯物論が基調で、「万物の根源は原子である」と言い切り、デモクリトスの系列に属した。さて、彼の哲学からはエピキュリアン(快楽主義と訳される)という言葉が生まれたが、彼の主張する快楽主義とは美味美食や美酒に心を奪われるような快楽ではなく、その真逆であって身体的に苦痛を感じることがなく、精神的に不安がない状態でいることです。このような「魂が搔き乱されていない静穏な状態」をエピクロス派の哲学では「アタラクシア」と呼んだ。平たく言えば「心の平静」です。「心の平静」を実現するためには、必要最低限の条件で生きる禁欲的な生活が求められるので、エピクロスは弟子たちに「世間から隠れて生きよ」と告げた。そして、アテナイの郊外に「庭園学園」を創設して、そこで教え子と一緒に、修道院のような質素で禁欲的な生活を送り生涯を閉じた。

ストア派哲学の創設者はゼノン(BC335-BC263)で、アテナイの市民の広場のストア・ポイキレと呼ばれる彩色柱廊で講義したので、ストア派と呼ばれるようになった。ストア派の哲学は内容が多岐にわたり思索の展開も難解ゆえ、エピクロスとの対比で紹介する。エピクロスは禁欲的な生活から心の平静を得ようとしたが、ストア派は幸福とは徳を追求した結果として得られるとした。徳とは4つの性状、つまり知恵、勇気、正義、節制のこと。徳を実践することは悪徳、つまり無思慮、臆病、不正、放埓と戦うこと。徳を学び取るために知識を磨き、それを実践して生きることで初めて、心の平静が得られる。エピクロスの「隠れて生きよ」とは対局にある思想である。またストア派は、万物を動かす根源にある自然の理法(道理にかなった法則)と、矛盾なく合致する人間の性格と行動がある。それがすなわち善(あるいは善を実現する力である徳)であり、反するものが悪であると考えた。さらに人間は本来的に自然の中でロゴス(理性)を与えられているので、誰でも意識的に徳を追求することは可能と考えた。だから世界の人間はみんな平等であると考えた。コスモポリタンの思想である。ローマが帝国時代に入るとエピクロス派の哲学とストア派の哲学は並び立つが、やがてストア派の哲学がローマのリーダーたちの哲学として確立されていく。一方、エピクロス派の哲学は庶民的な人々の支持を集めた。

ヘレニズム時代に中国では諸子百家の全盛期が訪れた

春秋・戦国時代の諸侯に仕えたインテリ層は野望を持ち、自らの考えをまとめて本にしたり、覇権を求める諸侯に講義をしたり、自分の学問の実力を戦国の世で役立てようとした。このような大志を抱いたインテリ集団を諸子百家と呼び、主なものは以下。

  • 儒家 孔子を開祖とする学派
  • 墨家 墨子を開祖とする学派
  • 法家 法を重んじて信賞必罰を定め、権力を君主に集中して民を治めることを説く学派。商鞅が実践を始め、韓非が大成
  • 名家 名(言葉)と実(実践)の関係を明らかにしようする論理学派。実際は単なる詭弁術
  • 道家 無為自然を説く。老子を祖とし荘子が大成。後に神仙思想や陰陽五行説と一体となり道教が生まれる
  • 兵家 春秋・戦国時代の兵法を論じた。兵法書『孫子』の著者は、春秋時代の孫武とその一族である戦国時代の孫矉であるとの説が有力
  • 陰陽家 陰陽説は中国における宇宙生成の理論で、世界は天と地、日と月など無数の陽と陰(2大元気)で構成されると考える

秦の始皇帝が、法家の思想を基本軸に据え、中央集権国家(法に則った文書行政による法治国家)を樹立して以来、中国は2000年を超えてもなおそのグランドデザインに揺るぎはない。政治の建前が儒教から共産主義へと看板を付け替えただけのように見受けられる。

一般民衆は建前としての儒教の教えに従って先祖や家族を大切にし、世の中の進歩に合わせて生きていく。無法者は法で裁かれる。そして法家や儒家がまじめすぎてバカバカしいと思う知識階級には老荘思想があった。このように諸子百家の思想は共存が可能で、中国社会の主だった階層の人々がそれぞれ心を寄せられる思想をうまく用意したようにも考えられる。このように、儒家、法家、道家の存在が中国社会に安定をもたらした。

ヘレニズム時代に旧約聖書が完成して、ユダヤ教が始まった

BC7世紀の後半、メソポタミアを征服した新バビロニア王国(BC625-BC539)のネブカドネツァル2世はBC597年にエルサレムを首都とするユダヤ人の小国、ユダ王国を制圧。ユダ王国の指導者をすべて新バビロニアの都、ユーフラテス川に近いバビロンまで連れ去った(「バビロン捕囚」といわれる)。やがて新バビロニア王国はペルシャのアカイメネス朝ノキュロス2世に滅ぼされ、ユダヤ人は解放された。しかし捕囚から60年ほど経っていたので、ほとんどのユダヤ人はそのままバビロンに住み続けた。こうしてユダヤ人のディアスポラ(散在)が始まった。ただ祭司階級の人々は先祖のお墓を守らなければならないので、エルサレムに帰った。そして破壊されたユダヤ教の神殿を再建したが、他に誰も帰ってこないので、民族が消滅しかねない不安から、自分たちのアイデンティティを確認するために、旧約聖書を作り始めた。我々は今は苦しんでいて不幸であるが、もともとは神に選ばれし民である。必ず救世主が現れて救ってくださると。宗教に選民思想が登場した。

キリスト教の誕生

世界の宗教人口は、キリスト教が最も多く世界の宗教人口の33%(24.5億人)、次いでイスラーム教24%(17.5億人、そしてヒンドゥー教14%(10.2億人)、仏教7%(5.2億人)。

セム語族から生まれた一神教がセム的一神教で、その神の名をヤハウェと通称されている。ヤハウェは天地創造の万能神で、その神を信じる者を守る代わりに、信じない者には排他的な攻撃性を示す。この点で、太陽や月をはじめ万物にも神の存在を認めるギリシャやアジアの多神教とは対照的な神格を有している。ヤハウェはユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の神なので、3宗教の経典に共通する部分が生じるのは当然です。

イエス・キリスト以前の預言者と神との契約を旧約と呼び、イエスが語った言葉や行った奇跡について弟子たちが書き残したものを新約と呼んでいる。イエスがパレスティナのナザレに生まれたのはBC4年頃、ゴルゴダの丘で刑死したのがAD30年頃と伝承されている。

イエスの教えがどのようなものだったかはよく分かっていないが、当時のユダヤ教の上層部に蔓延していた堕落を批判した、ユダヤ教の刷新運動であったことは確かである。イエスが30代で刑死した後、イエスの弟や弟子によってエルサレムを中心に引き継がれた。しかし最も体系的に発展させたのはパウロ(生年不詳-AD65頃)。

パウロはイエスの言葉として次のように布教した。神は天地万物を創造し、人間はエデンの園で楽しく暮らしていたが、神の教えを守らず、禁断の知恵の実を食べてしまって原罪を背負ってしまった。イエスは全人類に代わって贖罪し、十字架にかかって刑死した後に復活した。イエスこそが全人類の救世主メシア(キリスト)である。

パウロによってユダヤ人だけでなくすべての人々に開かれるようになったキリスト教は、少しずつローマ帝国内に広まっていく。そしてイエスの教えを文書にまとめようとする気運が生じてきて、新約聖書の執筆が開始される。

ローマの支配階級が信奉していた思想は主にストア派の哲学で、信仰的にはどちらかというと無神論に近かった。一方でローマの庶民に人気のあった新興宗教が2つあり、ペルシャ生まれの太陽神ミトラスを信ずるミトラス教と、エジプト伝来のイシス教(女神)。ローマでキリスト教を布教し始めた人たちは、この2つの宗教からアイデアを借用して、イエスの誕生日をクリスマスとしたり、イエスを抱く聖母マリア像をつくったりした。もう一つ、イエスの顔つきを大神ゼウスから借りてきた。このような布教活動が見事に成功し、キリスト教に宗旨替えする信者が増えていった。ローマ皇帝は最初は、神の前の平等を重んじたキリスト教を弾圧するが、次第に信者が増えていくのを抑えきれず、313年に公認、そして392年国教に定められた。

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