出口治明『哲学と宗教 全史』1 ~宗教の誕生とギリシャ哲学

研修・読書

農閑期は落ち着いて読書できる絶好の時期なので、表題の大作を読んだ。僕は哲学にも宗教にもはまることはなかったが、いつかは世界がどうなっているかを把握し、苦しんでいる人々を救おうとした偉大な先達たちの思想や事績は知りたいと思っていたので、この機会に読んだ。分かりやすく書かれていたので、面白く一気に読んだ。紹介したいことは沢山あるが、自分で読んで楽しんでもらった方が良いので、少しかいつまむことにする。

なぜ、今、哲学と宗教なのか?

はるか昔から人間が抱いてきた問いかけは次の2つに要約される。

  • 世界はどうしてできたのか、また世界は何でできているのか?
  • 人間はどこからきてどこへ行くのか、何のために生きているのか?

この問いに対して答えてきたのが宗教であり哲学であり、さらに哲学から派生した自然科学だった。自然科学の中の宇宙物理学や脳科学などが、2つの問いに対して大枠ではほぼ最終的な解答を導き出している。

世界はどうしてできたのか、という問いを宇宙はどうしてできたのかと置き換えると、宇宙の誕生はビッグバンによって宇宙の膨張が始まり、やがて様々な物質やエネルギーが集まって星が誕生した。星が一生を終えると超新星爆発が起こり、星のかけらが四方八方に飛び散る。そしてその星のかけらから地球が生まれやがて生命が誕生し、人間が生まれた。

2つ目の問い、どこからきたのか?。現生人類の祖先「ホモ・サピエンス・サピエンス」は今から約20万年前に東アフリカの大地溝帯で誕生した。どこへ行くのか?。今から10億年ぐらいしたら太陽が膨張し地球の水はなくなって全生命が死滅する。何のために生きているのか?。人間も動物だから、次の世代を残すために生きている。

★この結論で、自分が生きている意味や世界の存在について納得しますか?自然科学の世界もここで止まっていなくて、次のような研究成果を上げている。

  • 宇宙を構成する物質の組成は、約5%が僕たちの知っている水素や炭素や酸素といった元素、約70%がダークエネルギー、約25%がダークマターですが、これらエネルギーや物質の正体は未だ不明です
  • 人間の脳の働きについては、人間が意識できる部分は数%に過ぎず、ほとんどが無意識の部分がコントロールしているが、この無意識の領域についても未だよく分かっていない

自然科学の発達が宗教や哲学を無用にすると思いきや、自然科学で解明できていることはわずかしかなく、解明できていないことがたくさんある。だから宗教や哲学はこの先も生き残っていく(?)。

宗教が誕生するまで

現生人類の祖先ホモ・サピエンス・サピエンスは約20万年前に東アフリカの大地溝帯で生まれ(僕の注:この頃言葉が生まれた)、それから約10万年後世界に旅立った(いわゆるグレートジャーニー)。約1万2000年前にメソポタミアでドメスティケーション(狩猟・採集生活から、植物を栽培したり、動物を家畜化すること)が起きた。それ以来人間の脳の進化はない。

世界最古の宗教ゾロアスター教がその後の宗教に残したこと

゛知の爆発゛が起こった古代ギリシャ(西方)と東方の思想家

超自然的な神の存在を意識し始めた人間は、素朴な太陽神や大地母神信仰を経て、自然の万物に神の存在を意識するようになり、原始的な多神教の時代へと進む。そして人類初の世界宗教ゾロアスター教が生まれた。

BC1000年(±300年)頃、古代ペルシャ、現代のイラン高原の北東部にザラシュトラ(英語読みがゾロアスター)という宗教家が生まれた。ゾロアスター教はペルシャを中心に中央アジアを経て唐の時代には中国まで広まった(中国では祆教と呼ばれた)。ゾロアスター教の教えは、①善悪二元論と最後の審判、②守護霊と洗礼、③火を祀ること。このゾロアスター教に一番多くを学んだのがセム的一神教(=ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教)。

現代社会に影響を与えている宗教は3つに大別でき、セム的一神教(上記)、インドの宗教(ヒンドゥー教や仏教)、東アジアの宗教(儒教や道教、日本の神道)。但し、中国で完成した禅や浄土教は必ずしもインド仏教とはいいがたく区別が難しい。

哲学の誕生は゛知の爆発〝から始まった

ギリシャではBC9世紀からBC7世紀にかけて、偉大な叙事詩人であったホメロスやヘシオドスがギリシャ神話を体系づけて『イリアス』や『オデュッセウス』、そして『神統記』を記した。

そしてBC5世紀前後、今日まで残るような様々な思想の原点が同時多発的に世界一斉に誕生した。まさに世界規模で゛知の爆発゛が生じたのだ。BC5世紀前後は、鉄器がほぼ世界中に普及し、地球の温暖化が始まる頃で、農作物の生産力が急上昇する。その結果、余剰作物が大量に生産され、有産階級が誕生、知識人や芸術家が登場した。

彼らは世界を神様が作ったはずはない、「何か世界の根源があるはずだ。それは何だろう」と考え始めます。この問いに最初に答えを出したのが哲学者タレスです。次にヘラクレイトス、エンペドクレス、デモクリトスなどと続きます。タレスはエーゲ海の東海岸(現トルコ)、イオニア地方の都市ミレトスの出身なので、彼につながる初期の哲学者を「イオニア派」と呼ぶ。また自然を探求する自然科学の立場をとっていたので、後世になると自然哲学者たちと呼ばれた。

タレスは、万物の根源(アルケー)は水と考えた。今日では人間の身体の約7割は水であり、地球上の生命の根源が水であることも判明しているので、タレスの直観力には恐るべきものを感じる。

ヘラクレイトスは「万物は流転する」という言葉を残している。さらに彼は、変化と闘争を万物の根源とみなし、その象徴を火とした。

エンペドクレスは、火・空気・水・土の4元素をアルケーとした。

デモクリトスは、アルケーはアトム(原子)であると考えた。物質を細分化していくとこれ以上分割できない最小単位の粒子(アトム)となり、アトムが地球や惑星や太陽を構成していると考えた。そしてアトムで構成された物質と物質の間の空間は空虚(ケノン)であると考えた。既に現代の唯物論に近い発想が生まれていることに驚かされます。

自然哲学者ではないが、後世に大きな影響を与えた偉大な哲学者にピュタゴラスがいる。彼は万物の根源は数であると考えた。これもまた鋭い発想です。ピュタゴラス教団の才能ある数学者たちは数々の現代に残る数学の定理を発見した。またピュタゴラスは一絃琴を用いて、音程の法則を発見した。それによって音階を数字で表すことを可能にした。

ギリシャ以外でも、インドではブッダや六十二見が登場する。六十二見とは仏教以外の思想を62種類にまとめたもので、その中で「六師外道」と呼ばれる6人の思想家が今日に名を残している。6人とはアジタ・ケーサカンバリン(唯物論者)、マハーヴィーラ(ジャイナ教の祖)など。

そして中国では、孔子や老子、墨子など諸子百家が生まれ、陰陽五行説がこの時期に台頭する。

ソクラテス、プラトン、アリストテレス

上記のタレスらの自然哲学者たちは世界の構造はどうなっている?と外部世界を探求したが、アテナイ生まれのソクラテス以降は人間の内面に思索を移していき、生きることについての問いかけを始めた。そうなった原因は彼が生きたアテナイの政治状況にある。

ギリシャの都市国家群の中ではアテナイとスパルタが強力で、2つが競い合い対立しながらギリシャの覇権を掌握する時代に向かう。そしてついにBC431年、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタが中心のペロポネソス同盟に分かれて一大戦争に突入(ペロポネソス戦争)、スパルタ側が勝利する。その後はアテナイではスパルタの政治的な介入が顕著になり、アテナイの黄金時代は黄昏を迎えた。そのような中で、ソクラテスたちはアルケー(万物の根源)を考えるよりも、人間が生きることの意味について思索を深めようとしたのではないか。

ソクラテス(BC469頃-BC399)は、「世界はどうなっているか、と考えるあなたはあなた自身について何を知っていますか?」と人々に質問を投げかけ、対話することで考えを深め、人々に不知を自覚させようと努めた(「不知の自覚」)。

プラトン(BC427-BC347)の哲学の本質は、一般的には「イデア論」であると考えられている。イデア論は二元論で、2つの異なった原理を立て、それによってさまざまな理論を成立させる論法です。代表的な例が、精神と肉体(物質)という2つの実在を認める考え方。二元論についてはピュタゴラス教団の影響を受けていたようだ。もう一つ、インド伝来の輪廻転生についても同教団から学んだ。プラトンはアカデメイアの地に学園を創設して、20年ほど学園の経営に従事した。ここで教えた学問は天文学、生物学、数学、政治学、哲学などで、教授方法は対話が重んじられた。この頃、代表作の一つである大作『国家』を執筆している。彼の生きた時代がアテナイの衰退期であったことと無関係ではないだろう。

アリストテレス(BC384-BC322)は、プラトンのアカデメイアで20年近く学んだ後、小アジアの小都市アッソスに移り、習得した学問を教えながら暮らした。マケドニア王に招かれて首都ペラに行き、王太子や彼のブレーンになる優秀な貴族の子弟を教える家庭教師を務めた。アテナイに戻ったアリストテレスは、東の郊外アポロン・リュケイオスの神殿のあるリュケイオンの地に、アレクサンドロス大王の資金援助を得て自らの学園を創設した。講義録が中世にまとめられ、『アリストテレス全集』となって今日まで残されている。もともとは550巻ほど存在したといわれ、「万学の祖」と呼ばれるにふさわしく、まさに多岐にわたっている。論理学、倫理学、形而上学、政治学などの哲学に関連する分野だけでなく、物理学、天文学、気象学、生物学などの自然科学についても広く網羅している。しかし、あまりにもきれいに様々な学問上の問題を体系立てて整理し、しかも整然としたロジックが強烈であったため、それからおおよそ1000年以上も、ヨーロッパの学問はアリストテレスの呪縛から離れられなかった。

孔子、墨子、ブッダ、マハーヴィーラ

春秋・戦国時代に孔子や墨子は思索し行動した:文字資料で実在が確認できる中国最古の王朝は商(殷)で、この商を滅ぼしたのが周。しかし周も北西の草原地帯で勢力を増大させた異民族に攻め入れられると、東に逃れ洛邑(現在の洛陽)に遷都。これにより周は国力を弱体化させ、政情不安な動乱期に入っていく。周の東遷から、秦が中国を統一するまでの約550年を春秋(BC771-BC453)・戦国(BC453-BC221)時代と呼ぶ。

孔子は周の時代に帰れと「礼」の復活を訴えた:孔子は、「周初、武王と成王、そして周公旦がいた時代は聖人政治が存在していた」ので、その時代の精神に戻れと主張した。それぞれの身分の人々が心豊かに生きるためには、社会の秩序を保つための生活規範、すなわち「仁」が大切だと。また祖先崇拝にもつながり、家族においては代々の親を大切にすることでもあると。同時にまた「仁」の大切さも説いた。「仁」とは自分の欲望を克服し、他人への思いやりを大切にする心。慈しみの心であり、人道主義や人間愛と置き換えることもできる。しかし、孔子を政治的顧問として重用する諸侯はどこにもいなかったので、十数年の諸国遍歴の後、故郷である魯に戻り、弟子たちを教えたり古書整理をして生涯を終えた。

墨子は孔子を批判:墨子は孔子没後しばらくして魯に生まれ、最初は孔子の教えを学んだ。しかし、孔子の身分社会を前提とした仁の思想に疑問を抱き、男も女も貧者も弱者も等しく人間として尊重されなければいけないと説いた。また戦争にも反対し「非攻」を主張。但し、攻められたら徹底的に守り抜けと説いた。さらに節約の思想も説き、当時の厚葬久喪(立派な葬儀を行い、長い喪に服すること)を否定し、節葬を提唱した。

バラモン教にストップをかけたブッダとマハーヴィーラ:BC5世紀頃のインドの宗教は、アーリア人の宗教であるバラモン教が中心だった。この宗教は人々を4つの階級(ヴァルナ)に分けた(カースト制)。最上位が司祭者階級バラモン、次がクシャトリア(王族・貴族)、そしてヴァイシャ(一般市民)とシュードラ(隷属階級)。しかしこの頃、高度成長によって豊かな人々が増加してくると、司祭者階級よりも農民や商人などブルジョワジーの力が大きくなって来た。彼らは財力を蓄えるともに自由な発想を持つようになる。知の爆発が準備されていた。知識人の一部はバラモン教の世界から抜け出し、新しい教えや生き方を求めるようになった。彼らは「出家」し、ブッダとマハーヴィーラもこのような時代背景の中で登場した。

ブッダもマハーヴィーラもその教義の根本は、輪廻転生からの解脱。輪廻転生はインド土着の信仰で、人は死後あの世に行くが、やがてこの世に生まれ変わる。そしてまた死を迎え、また生まれ変わる。それは永劫にわたって繰り返される。しかし人生には必ず苦痛が伴うので、それが永遠に繰り返されるのはしんどい。何とかして輪廻転生のサイクルから抜け出し、変わらぬ永遠の生命を得たいと願う。それを実現するのが、輪廻転生からの解脱。

その問いに、ブッダは苦行と瞑想を繰り返した後に、抜け出す道を見つけた。それは8つの基本的修行(八正道)を実践すること。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。分かりやすく言えば、正しい見解・決意・言葉・行為・生活・努力・思念・瞑想のこと。

一方、マハーヴィーラの始めたジャイナ教は、苦行と瞑想に重点を置いていた。最も強調した教えはアヒンサー(不殺生)でした。それは徹底しており、植物も動物も食べない断食による餓死さえも否定しなかった。インド独立の父ガンディーはジャイナ教に強い影響を受けていたといわれる。

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