紅葉の玄武洞を訪れた。紅葉は色づき始め、見頃、色あせ始め、落葉が入り混じり鑑賞適期の見極めが難しいところだ。ところで去年の12/12のブラタモリは『城崎・豊岡の“影の主役”は玄武岩』で、地元民としては興味津々で知らないことも多くたちまち玄武洞のファンになってしまったので、記念に覚書を残しておいた。そして、その後は四季折々に訪れるようにしているが、今回改めて新しい写真を追加しながらブラタモリをたどってみたいと思う。
1.城崎温泉
第1幕は開湯1300年の城崎温泉街の中心を流れる大溪川(おおたにがわ)の600mに亘る護岸の石=玄武岩から始まる。現在の景観は、大正14年(1925年)に起こった北但大震災で焼き野原になったところを復興してできたもので、玄武洞から岩を切り出し護岸工事が行われた。玄武岩は比重が大きく、重くて固いのが特徴。

因みに、北但大震災については豊岡市の「北但大震災の概要」に記録が残っているので参照してください。豊岡と城崎に分けて記録が残されているが、ここでは城崎の記録の内の1枚の写真を以下にお借りします。大変な惨状だったことが分かります。

2.玄武洞
第2幕は主役の玄武洞。約165万年前に噴火した溶岩流で、縦だけでなく横にも割れている柱状節理が非常に珍しく特別な場所。それだけでなく、1929年に松山基範博士によってノーベル賞級の発見と言われる地磁気の逆転現象が発見されたところでもある。玄武岩ができた当時は地磁気が現在と反対向きで、地球はこのような逆転現象が何度か起こっていることが判明した。さらにこの発見がプレートテクトニクスの発見にも寄与したとのことで、玄武岩は地学においても主役だったのだ。




3.コウノトリ
第3幕はコウノトリの郷公園(HPはこちら)。ここも見どころ満載ですが、盛り沢山になりすぎるので紹介は改めたいと思います。
日本のコウノトリは1971年に絶滅したが、最後の生息地が豊岡だった。それは、豊岡が適度に低い山と田んぼがあったからだが、とりわけ低い丘陵地にたくさんの谷があったことが、縄張り争いが激しいコウノトリにつくりやすい縄張りを提供した。そして、コウノトリの採餌場である田んぼが広がっていたのは玄武岩のおかげで、第4幕でその謎を解き明かす。
4.広大な田んぼ
最後は来日岳から豊岡盆地=広大な田んぼを見渡す(下の写真)。普通は河川の下流域に行くに従って広がっているが、豊岡盆地は逆で、下流域の方が狭まっている(その下の写真)。それは、円山川の河口付近に玄武洞があり、固い玄武岩が浸食を食い止めているから。元々豊岡盆地は海底だったが、2万年前の最終氷期ピークには地上になり(海面は現在より100m低かった)、その後海面上昇したが、6000年前に円山川から運ばれてきた土砂が外に出ないで入江で堆積して真っ平になり、広大な田んぼになった。


おまけ
11/7の『但馬と土木』セミナーの第2部で、活動写真弁士・大森くみこ氏によって、但馬国生みの神「アメノヒボコ」物語が紹介された。物語ではアメノヒボコが「瀬戸の岩戸」を切り開いたので、湖だった円山川下流域の水が排水され、豊岡平野が耕地として開拓されたという。とすると「瀬戸の岩戸」とは河口付近の玄武岩だったかもしれないですね。