昨日読んだもう1冊の本が表題の本で、こちらも父から継いだ娘・2代目社長の奮闘記。埼玉県入間郡三芳町にある産業廃棄物処理会社・石坂産業株式会社の2代目女性社長は、今にも存続の灯が消えそうなどん底の状態からスタート。
1999年2月、ニュースステーションで、埼玉県所沢市のほうれん草をはじめとする「葉もの野菜」に高濃度のダイオキシンが含まれていると報道された。そもそも所沢市、川越市、狭山市、三芳町の3市1町にまたがる「くぬぎ山」といわれる雑木林は、当時“産廃銀座”と呼ばれ、産廃処理場が集中していた。だから「所沢の野菜はダイオキシンで汚染されている」という情報は一気に広まり、結果、埼玉県産の農作物の販売を自主的に停止するという大騒動になった。後日、ダイオキシンが検出されたのは野菜ではなく、煎茶だったことが判明したが、時すでに遅し。一向に騒動が収まる気配はない。
そして、住民の怒りの矛先が烈火のごとく産廃業者へ向かい、大バッシングが始まった。「石坂産業反対!」「石坂はこの町から出行け!」と会社への風当たりが日増しに強くなっていった。そんな2002年、30歳のときに「永続企業にする」というミッションとともに2代目社長に就任(父は代表取締役会長)。バッシング報道で地域から嫌われ、改革により社員の4割が去っていくという、まさに“絶対絶命”の船出。
あれから12年。今も建設系産業廃棄物のリサイクル事業を営んでいるが、大きく変わったのは2つ。一つは工場から煙が出ていた煙突がなくなったこと。もう一つはプラントの周りに広大な里山ができたこと。これはミッションである「永続企業」を達成するために、里山再生と地域共生に取り組んだ結果。
父はどうしてこの会社をつくったか?:家は農家で兄弟も多かった。中学を出るといろんな仕事を転々としたが、結婚して子どもができると、地に足をつける仕事を探した。ダンプを買い、建築現場から解体した廃材を東京湾に運んで埋めた。でも使えるものが結構ありもったいないと思った。いつまでも続くわけがない。いずれゴミを捨てる時代は終わる。これからはリサイクルの時代が来なくちゃいけない。できればこの会社を子どもに継いでほしいと思い、会社をつくった。
脱・産廃屋を目指す:最初の決断は、15億円の焼却炉を廃炉にすること。ダイオキシン対策炉なのでダイオキシンは出ないが、日増しに反対運動が激化するのを見た父は、「地域に必要とされない仕事をしていても仕方ないな」と、命がけでつくった炉をつぶす決断をした。そして、生き残りをかけた最後の挑戦、40億円にのぼる全天候型独立総合プラントを導入した。
荒廃した現場で50代不良社員に立ち向かい、会社を変えた。
「地獄の3年間」から「おもてなし経営」へシフト:知人に割烹料理屋さんに連れて行ってもらった。入口に季節の飾り付けがしてあった。これは「室礼(しつらい)」といって、「日本人の心であり、季節感を演出することでおもてなしをすること」。このことを知って「おもてなし」について考えるようになった。おもてなしは、目の前のお客様が欲していることは何かを必死で考えることだが、最終的には信頼関係を築くためとの結論に達した。
「里山再生」こそが地域の人たちへのおもてなし:顧客や社員に対するおもてなしは当然あるが、永続企業になるために信頼関係を築かなくてはならない相手、それは地域や地元の人たち。では、地域の人たちへのおもてなしをどうやって実践するか?会社の周りは広大な里山が広がっているが、手入れされずに荒れていたり、大量のゴミが捨ててある。もともとこの地域の人々は里山の恩恵を受けながら生活し、里山に感謝しながら生きてきた。この里山を守ることが地域の人へのおもてなしになるのではないか、これこそが信頼関係を築く道なのではないか、と考えた。
生物多様性の森とJHEP最高ランク格付「AAA」取得:里山保全といってもやり方はいくつもあるので、その指標として、JHEP(ハビタット評価認証制度)の審査を受けることを決めた。これは2008年に日本生態系協会が創設した制度で、生物多様性の保全や回復に役立つ取り組みを評価するもの。2012年に日本で2番目に最高評価「AAA」を取得した。
そして、子どもたちに環境教育や自然体験活動を行う施設で、安全で教育プログラム中に入れられる施設として都道府県知事が認定する制度の認定も受けた。これをきっかけに2013年には来場者が2000人を超えた(内子どもは2割程度)。最近では学校以外にも、自治体が開催する夏休み親子教室、NPOの活動などにも利用されるようになり、環境学習のため専属部署をつくり、社員8名で対応している。また、2013年には職業訓練校の認定をとり、「くぬぎの森環境塾」を開いた。
地域に根ざそうと決めた時から、地元の人たちを巻き込んだ、環境保全グループ「やまゆり倶楽部」を立ち上げた。地域の方との交流を深めるため2005年から1年おきに夏祭りを開催している。休耕田を借りて、そこで採れた作物を使った第6次産業(原材料を加工販売すること)も始め、敷地内の店舗で販売している。店舗の本当の目的は地元農家の方々とのコミュニケーションで、農家の野菜を代理販売したり、店舗の2~3階は展示スペースとして月1000円で貸し出している。
どん底からでも利益を生み出す方法:焼却をやめて、全天候型プラントを建設したのは、世の中で一番困っている廃棄物に目を付けたから。それは不燃系廃棄物(木屑や廃コンクリートなど)で、処理する会社が少ないので不法投棄され、社会問題になっていた。だから40億の投資をしたのだが、これはまさに生き残りをかけた最後の挑戦で、全社存続をかけた一世一代の大博打と言っていい。しかし実際は父の頭の中に勝算と着実な返済計画があった。
「技術を貫き」「不燃系廃棄物」というライバルの少ない市場に参入したため、安定的に収益が上げられた。現在では搬入される建設廃棄物の減量化・リサイクル化率は95%を達成している。ここまでリサイクル率を上げるのは、埋め立てをする廃棄物を少しでも減らしたいから。国土の狭い日本で今後も際限なく埋め立て続けるのは至難の業。活かして、活かして、活かしきる―それを実現するため設備メーカー等と組んで、研究開発・技術開発を行っている。
日本全国だけでなく世界中からも見学者が後を絶たない。日本の廃棄物処理ビジネスは世界で通用する。「100年先が見える工場は自然との共生だった」ことに気づいた石坂産業の取り組みはまだ始まったばかり。
以上、長くなりましたが、これでもほんの一部しか伝えられていません。是非本を読んでいただければと思います。